河添惠子さんの講演会「ポーランドと日本の熱き絆」を聞いてみた

ポーランドイベント

ポーランド愛伝道師のポラ子です。

今日はポーランドと日本との熱き絆を求めて講演会に参加してきました。
講演会のチラシはコチラです。

ポーランドは日本の隣国の隣国!?

「『日本から一番近いヨーロッパはフィンランドだが、ポーランドは遠くないヨーロッパである。ポーランドの東には大きな森があり白い熊がいるが、その隣は日本だ』という言い方がある」とのことです。

LOTは2016年に週3便だったのが、2017年に週4便、2019年には毎日就航する。これは珍しく、他と比べ逆行している。ショパン空港をハブ化したいのではないか、と。

またポーランドは民度が高い。町を歩いてもゴミが無いそうです。

公式にポーランド人と触れた最初の人物

この日の話題に出たのは、本にも書かれてる福島安正という人のこと。初めて公式にポーランドを訪れ、ポーランド人と触れ合ったとされる人です(ポーランドは当時分割されていました)。
※詳細はぜひ本を読んでいただきたいのでざっくりとだけ書きます。

河添さんの著作「世界はこれほど日本がすき」はこちらです。Poland Poland Polandのイベントで買い、サインしていただきました。

日本人は語学が苦手なイメージがありますが、この福島安正はなんと英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語の5カ国を操ります。その語学を駆使して、ベルリン〜ウラジオストクまでの1万4000kmを488日かけて単騎馬で踏破し、帝政ロシアの情報収集など行いました。愛馬“凱旋”が病気になり手放す時には新聞記事に載ったそうです。

福島安正はポーランド(亡国になっているという意味で)は人ごとではない、シベリア鉄道が完成したら戦争が起きるだろうと考えていたそうです。

国家再建の思いと結びつき、ポーランドで日本研究ブームが起こる

福島安正が憂いていた日露戦争が実際に起き、開国して40年にも満たない日本が勝利します。それにより、ポーランドで日本研究が始まります。

愛国の志士が国家再建の想いで研究をし、1904年〜1905年にかけて日本研究の書物の出版ラッシュだったそうです。

そんな中、SAMURAI、BUSHIDOという言葉が定着します。今でもよく読まれるそうです。

日本人を評した人の中でも注目すべきはボレスワフ・プルスです。
プルスはユダヤ系ポーランド人で夏目漱石と三島由紀夫を足して2で割ったような人。

15歳で1月蜂起に参加し、ワルシャワ大学の正門の前にある書店名にもなっています。

プルスさんは日本を分析しこのように評しています(講演会でとったメモに補足しているため、一言一句同じではないことはご了承ください。)。

日本人の魂の奥深くにある特質は……個人の尊厳という偉大な感覚であり、その尊厳の核になっているのは勇気である。…それは先の戦争で証明した。

日本では怒りや悲しみ、喜びなどを自己抑制できない者は野蛮人とみなされる。

また日本人の美徳は愛国心である。それは外国への軽蔑、憎しみに根ざしたものではなく、己に属するものへの愛情である。

と書いているそうです。ちなみに河添さんの著作にも、もちろん書かれています。

ポーランドの日本語熱

ワルシャワ大学の日本語学科は世界で二番目に古いそうです。一番古いのはオランダのライデン大学です。欧州で日本語学習者の4人に1人がポーランド人だそうです。年に2回日本語検定を実施しているのはポーランドだけだそう。
これは余談ですが、朝9時ころから午後4時まで茶道のお稽古する写真や、日本関連のイベントに多くの方が集まっている写真も見せていただきました(撮影禁止のため記録は無し)。

ブロニスワフ・ピウスツキのアイヌ研究

また、ブロニスワフ・ピウスツキにも触れられました。私は河添さんの本を読むことで興味をもち、ポーランド映画祭で彼のドキュメンタリーを観に行きました。(その様子はブログに書きました)

 

 

 

話を戻すとブロニスワフ・ピウスツキは、アイヌの人々を蝋管に映像と音声として大量に残しています。北海道大学が協力し復元され、今でも第一級の資料となっています。彼の弟はユゼフ・ピウスツキで初代国家元帥です。ユゼフ・ピウスツキはポーランド社会党の創設メンバーです。

ポーランド人捕虜と愛媛県松山市

日露戦争ではロシア兵といってもフィンランド人やユダヤ人、ポーランド人などもいました。そのポーランド人ロシア兵は満州などに送り込まれていたそうです。ユゼフ・ピウスツキは「敵の敵は味方」であるとし、ポーランド人兵と予備兵に投降を呼びかけるビラを撒いたそうです。そして投降した兵士は松山の収容所に送り込まれました。日本に収容された捕虜は7万2000人以上で、その内ポーランド人は4600人以上だったそうです。全国29箇所ある収容所のうち、松山は最初に作られました。海に囲まれ逃亡が困難であることや、道後温泉が慰安と治癒に適していたことから作られたのではないか、とのことです。

その最初の収容所が作られた地、松山の人は捕虜に人道的な待遇をしたそうです。時に自転車レースなどの娯楽まであったようです。満州の収容所にいたことのある人が比較して、松山は素晴らしいとも言っています。

あまりの待遇に帰化したいと望むポーランド人までいたそうです。この待遇や交流については是非本を読んで頂きたいです。おもてなし、とも言えるほどなのです。

松山にある「ロシア人墓地」は今では「ロシア兵墓地」と正しい名前に変えたそうです。

ポーランド人孤児救出

第一次世界大戦やロシア革命による内線などの混乱によりシベリアに残される孤児がいました(もともとシベリアに政治犯などが流刑されていたため、その子孫のポーランド人が多数いたそうです)。

1918年、日本政府はシベリア孤児の救済要請からわずか17日で救護活動を決断します。シベリアに出兵していた日本兵が孤児を探し出します。

そして1920年の7月と、1922年の7・8月にウラジオストクから敦賀港に孤児を迎えいれました。ここから孤児は東京や大阪、神戸等に行ったそうです。

この時の孤児であったイエジさんはワルシャワ大学を卒業しています。そしてイエジキ部隊のTOPであり、第二次世界大戦では最も危険な任務にあたっていたそうです。また孤児院を作ったのか100人のパパと呼ばれていたそうです(ちょっとメモが断片すぎて孤児院を作ったのか、孤児を支援したのか自信ありません)。

このイエジさんは80歳の時(1983年)に来日されたそうです。赤十字にお礼が言いたかったとのこと。

その他のポーランドとの交流

この他、もちろん杉原千畝さんや、シュピルマン氏(戦場のピアニストのモデル)の奥様のお話もありました(詳しい方が大勢いるのでここでは割愛します)。
ヤルタ密約を伝えたのもポーランド人だった、などのお話もありました。

また興味深かったのが、ポーランドでは能が受け入れられている、ということ。チェコは能ではなく狂言なのだそうです。

ではなぜポーランドで能が受け入れられているのでしょうか?

  • 民族宗教において、11月に日本のお盆のようなものがある(死者の日:今ではカトリックの概念になっているようですが)。
    ※私も調べたことあるのですが、菊をたむけるのも似ています。
  • 長く寒い冬があり、孤独を味わっている。春を待ちわびる気持ちが、日本の季節感(季語など)や情感を理解できるのではないか?

とのことでした。

まとめ

河添さんが仰るには、親日とされる国はいろいろあるが、歴史共有できる国と歴史を共有しましょうということでした。つまりは、民族性の合う人と共有しましょう、と。

日本研究出版ラッシュの時も、あれだけ客観的に分析した国はそう無いようです。その客観性は大事ですし、ありがたいですね。

また、ポーランド人をこう評していました。

  • 民度が高い
  • 感受性が豊か
  • 多言語話者である

私も、とても優秀で信頼に足る国民性との印象を受けました。
実際にポラ子もその優秀さは、触れ合うポーランド人から常に感じています。

まだまだメモはありますが、長ーくなるのと、興味のある方には本を読んでいただきたいのでこれにて締めたいと思います。

講演会では過去の交流の話でしたが、さすがに世代が変わると孤児の話もみんながみんな知っているとは限らないと思います。今の時代に交流してこそ、未来の友好関係もあると思うので、そのためにもポラ子はポーランド情報をお届けしたり、イベントに参加したりしていこうと思います。

貴重なお話をありがとうございました。

 

河添先生のご本はコチラです。

 

 

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